新型インフルエンザや口蹄疫など「病」が日本でも流行し、昨年の高浜地区敬老会も新型インフルエンザの流行を危惧し中止としました。今年も敬老会の会議や敬老者への案内など振興会ではじめています。

そんな今、高浜地区振興会前会長の松本教夫氏(前天草ロザリオ館長)から高浜での流行病と献身的治療に当たられた医師についてお話を伺いましたので紹介します。

 

『国連世界保健機構(WHO)は1979年10月27日ナイロビから全世界に向けて宣言した。有史以来、人間社会に多大の犠牲を強いた天然痘からついに人類は解放されたのである。

しかしこの恐ろしい天然痘は、天草の近世(天草の乱から明治維新の期間)では30回以上天然痘が(以下疱瘡と記す。)襲ったことが記録されている。天草における疱瘡の流行は特に西海岸に面した港を所有する所から侵入し流行したようである。高浜での疱瘡が大流行した時期は、文化4年(1807)と安政3年(1856)頃が最も多い。文化4年の例から「12月高浜諏訪の薦助なる者が病名不明のまま死亡し、薦助の病気中、立ち寄った者や、葬儀に参列した者たちが一時に発病し、同月14日までに75人の患者が発生したのである。ただちにこれを山小屋(妙見を望む外平一帯)に隔離し、更に同居家族を除小屋に隔離した。更に新患者が増え61人が死亡したのでである。時の高浜村庄屋上田宜珍は、肥後宇土郡硴の江村から医師宮田賢育を招き、徹底した治療にあたらせ賢育は単身山小屋に泊り込み治療に専念する。賢育の献身的治療により疱瘡も下火になり硴の江村に帰るが、宜珍の養成によって再び高浜村に移り住み医療にあたる一方漢学の師として村人の指導にあたる。文政11年(1828)70才で高浜村で逝去。宮田賢育は「天草医療の先達」として、平成元年11月26日天草郡医師会創立100周年記念式典にて表彰を受ける。』


宮田賢育先生1

高浜小学校近く、高浜駐在所の上にひっそりとお墓があります。

宮田賢育先生2

宮田賢育先生の献身的な偉業をたたえて。



お盆がすぎ、朝晩は朝晩は涼しく感じられるようになりましたが、甲子園は九州勢や九州学院の活躍で地元も熱く、特に天草出身の選手がこれほど活躍する大会はなかったと思います。

そんな中、今日の熊日朝刊に高浜出身(諏訪地区)の松下晋也君が九州学院野球部バッテリーコーチとして甲子園に帯同しチームを支えていている記事が紹介されていました。いい記事だと感じました。晋也君のお父さんも振興会設立から役員をされていて、各方面で地域を支えています。

お盆の精霊流しも振興会も色んなひとに支えられ行われます。毎年、精霊流しのレイアウトや撤収も色んなアイデアが出て自ら実行されています。「支える人がいるからこそ表舞台が輝く」と一層想うような朝です。

8月15日夕に高浜精霊流しが開催されました。振興会が主体となり実行委員会を組織し、海洋汚染等を考慮し海に流さないようになり4回目となりました。

高浜での今年の初盆は30家であり、例えようない転機が各々の家で起こり、初盆では、その家に親族が集い、語り、別れ、秋風が吹く、白砂と翠の白鶴浜を眺めました。 

お供え物お土産も海に流さず供養をします。大きさも蓮の葉に包まれる程度の大きさとしています。
22精霊流し1

夕闇がせまり、精霊舟の到着を迎えます。
高浜精霊流し2

実行委員会では約600個の提灯を飾り、出迎えます。(提灯は初盆家から精霊流し後に寄付頂いたもの)
高浜精霊流し3

精霊舟が会場へと到着してきます。実行委員会では少子高齢化で担ぎ手が不足してきたという意見が多く、精霊舟はコンパネ半分の大きさ(船底)と全長は270センチで提灯は大が20個以内、豆提灯が10個以内としました。

高浜精霊流し4


精霊舟の集結です。月日の経つのが早く、もう精霊流しかといったような気がします。多くの悲しみが、夏の汗のように流れ落ちて行くような気がしました。
高浜精霊流し5

集結の後は供養の読経、焼香と進みます。
高浜精霊流し6


最後は、チャーター船に初盆家から1人乗り込み持ち出航します。輝ける闇の向こうへ経木塔婆とお供え物も乗せ精霊様を送ります。
高浜精霊流し7



 8月13日夕方の風景です。高浜の転び墓地の風景です。親族の皆さんが提燈を灯し花火を鳴らし精霊様を迎えます。8月13日の風景1


今日は天気が心配されたせいか早目に「迎え提灯」を灯されたようでした。

8月13日の風景1

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