十三仏公園(じゅうさんぶつこうえん)
天草西海岸(東シナ海)を眺望できる景勝地です。
海に向かい突出しているため、白鶴浜海水浴場や妙見浦の奇岩を見ることができます。
西海岸に沈む夕日を展望する絶好のポイントのひとつ。
名前の由来となった十三佛堂があります。
ドライブやデートスポットとしていかがですか?
与謝野夫妻が昭和7年に高浜を訪問した時の詳しい様子です。
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平成21年度高浜歴史散策会 PDF(353KB)
与謝野寛・晶子・天草旅行から PDF(196KB)
白鶴浜海水浴場(しらつるはまかいすいよくじょう)
鶴が大きく翼を広げた形に似ていることから、この名がついた天然の白砂ビーチ。
背後には松林が続き、浜には特定希少動物のアカウミガメが産卵に訪れます。
夕焼けを愉しみながら散歩してみては?
※キャンプ場もあります。
旅館白磯
赤崎伝三郎が建てた自邸。和風の母屋に洋風の応接スペースを設け、正面から見ると、二つの建物が並び立っている。母屋は大きな床を構え、蟻壁のある本格的な座敷など、成熟した近代和風建築の意匠を見ることができ、また洋館部分は漆喰によるモールディングが施され、当時の上げ下げ窓やベランダなど、擬洋風建築の雰囲気をよく伝えている。
赤崎伝三郎
赤崎家当主であった赤崎伝三郎(1871年生)は、30代前半に上海などを経由して、マダガスカル島北部にある軍港ジェゴスアレスに渡った。質素な設備で始めた酒場は、多くのフランス軍兵隊で賑わいを見せていた。
明治37年暮れ、この島にロシアのバルチック艦隊が姿を現す。日露戦争における日本海の制海権を奪うため極東に向かう途中であった。38隻の大艦隊を見た伝三郎は驚嘆し、また祖国の運命もはや風前の灯かと嘆かずにはおられず、 即刻インドのボンベイの日本大使館に電報を打ち、命懸けの情報提供をする。アフリカの一日本人の国難を救おうとした愛国心は、日本海軍に大きな感動を与え、戦争終了後、海軍から伝三郎へ感謝状が送られている。
帰国後は、高浜小皿山分校の新築をはじめ、日本赤十字社に寄付を行うなど、慈善活動も盛んに行っていた。その後、高浜に和洋折衷の豪邸を建てて静かな晩年を過ごし、昭和21年、77才の生涯を閉じた。この豪邸は現在、「白磯旅館」となっており、伝三郎の生涯に思いを馳せることができる。
白磯様より赤崎伝三郎氏ゆかりの貴重な写真を提供していただきました。
マダガスカル時代と他の写真 PDF(992KB)
高浜に帰って来てからの写真 PDF(694KB)
上田家と旧上田家住
世界一の質・量と謳われる天草陶石の採掘業は、旧高浜村の庄屋・上田伝右衛門(上田家3代目)が創業した。窯業は伝五右衛門(6代目)により宝暦12(1762)年に始められ、数年後にはオランダに輸出もされるなどして、7代目の源太夫宣珍の代に更なる発展を遂げてきました。
明治22(1889)年、13代目の松彦は上田窯による高浜焼の製造を中止し、陶石採掘販売を専業とした。(後、昭和27年に高浜焼窯元は復活)この経緯からも分かるように、上田家は江戸時代から昭和にかけて高浜に産業を根付かせ、多くの雇用を創出してきました。
旧上田家住宅は、屋敷の総面積3,300㎡、建物面積369㎡であり、庄屋としての格式の高い屋敷構えを今に伝えている。大きな屋根を載せる母屋には、文人趣味に彩られた数寄屋の離れが増築され、与謝野晶子ら数々の文人・墨客が訪れている。それらを取り巻く庭園は、裏山の一部を取り込んだ大きなもので、泉水はや石組で品良く構成され、サルスベリやモミジなどの大木に、この屋敷の長い歴史を見ることができる。
この屋敷は文化12年(1815年)建築であり、江戸期の庄屋家が現存していることは、当時の天草の歴史を知る上でも極めて貴重な存在であり、県指定文化財として登録されている。また平成18年3月27日には文化庁により有形文化財として上田家住宅主屋 をはじめ 住宅離座敷 正門 表玄関 裏門及び塀 が登録されました。
準堤観音 ~高浜とキリシタン~
享和2年(1802)幕府は邪宗(キリシタン)取締強化の布達を出した。その頃天草西目筋では、不音な空気が漂っていた。
各村の庄屋、僧侶方には、仏教強化に努め、村民に神仏を崇め道理を弁え邪宗に走ることが無きように導くことを任務として課せられていた。
高浜村の場合、村民を改宗に導くための方法として、上田庄屋が準堤観音信仰の推進を図った。それには二つの方法を取った。
一つめの方法として、準堤観音像の印施(絵像を紙に刷った物)を各戸に配布し戸口(家の入口)にこれを貼り付けるよう申し付けた。村中で申し合わせて準堤観音信仰専らにし、その家がキリシタンでないことを証明したというのである。
二つめの方法は、キリシタン信仰を持つと思われる集落(白木河内)に準堤観音本尊と御堂を文化元年に建立し、本尊の開眼供養が隣峰寺庵海雲和尚によって行われた。
後の結果として「天草崩れ」の際(1805)、心得違いの者が他村では一千あるいは二千数百人であるのに対し、高浜村の場合、白木河内集落を中心に316人と少数に留まったことが注目される。
文責及び監修:松本教夫氏(前高浜地区振興会長)