2月19日高浜地区コミュニティセンターで京都府立大学の東昇先生を講師に高浜歴史文化講演会を開催しました。今回の演題は「江戸時代の高浜村、村、迫の運営と生活」でした。
村には庄屋、年寄、百姓代、筆者がいて、組頭(五人組)が組織され各迫には宿老(掛役)仁才頭や仁才がいて博打の取り締まりなどの難破船救助や出火出勤など警察や消防などの機能と今もお苦役などの言葉が残る道の補修や神社関係の行事が行われていたことが、今も受け継がれていると感じました。
慶応4年の戸数645戸で今より少し多いぐらいですが人口は約3600人で今の3倍以上で17世紀末から約4倍に増加したとのことでした。江戸後期は列強の外国船の脅威があり、白鶴浜は外国船が停泊しやすい浜であり、島原の代官所からも遠く自主防衛が迫られ高浜防衛の組織化がされたとあり、郷土の誇りである白鶴浜の視点が少し変わったように思えました。
江戸後期は列強の外国船の脅威があり、白鶴浜は外国船が停泊しやすい浜であり、島原の代官所からも遠く自主防衛が迫られ高浜防衛の組織化がされたとあり、郷土の誇りである白鶴浜の視点が少し変わったように思えました。
梅雨もあけず、暑い日が続く7月9日日曜日に振興会では白鶴浜海水浴場の北側の清掃作業を行いました。
地域の30人があつまり、燃えるゴミ燃えないゴミに分けて収集し、一汗を流しました。
7月1日に海開きをしましたが、まだ早朝で人出はまばらでこの後、サーフィンを楽しむ姿がありました。
梅雨の晴れ間に豊作を祈願する虫追い祭が、25日に行われました。
高浜八幡宮での神事が終わり明け方までの雨も止み行列を行うことになりました。
行列の先頭には4メートルほどの竹の先に五穀を表わす、赤・黄・青・白・緑の五色の旗が風になびき、虫を追い払うとされる、ほら貝・かね・太鼓の音はのどかに広がる稲田に響きました。
道中は、稲が順調に育つようにお払いと御幣を立て豊作願いました。
最後は高浜川で虫がついたとされる五色の旗を洗い流し、五穀豊穣を願いました。
6月4日夏の水難事故防止を願って、白鶴浜海水浴場にある「水天宮」で祭りが開催されました。
地元の高浜中向区の方が集まり祭りが開催されました。
伝統の茅の輪くぐりです。
言葉を唱え輪をくぐります。
まだ日陰にいるとひんやりと感じられ夏にはもう少しかかりそうです。