高浜の歴史~準堤観音
幕府は邪宗(キリシタン)取締強化の布達を享和2年(1802)に出した。その頃天草西目筋に不音な空気が漂っていた。
各村の庄屋、僧侶方に村民に仏教強化に努め、神仏を崇め道理を弁え邪宗に走ることが、無きように導くことを任務として課せられていた。
高浜村の場合、村民を改宗に導くたの特別の方法として、上田庄屋は準堤観音信仰の推進を図った。それには二つの方法を取った。一つの方法としては準堤観音像の印施(絵像を紙に刷った物)を各戸に配布し戸口(家の入口)にこれを貼り付けるよう申し付けた。その家が邪宗でないこと証明しようとしたのである。村中申し合わせ準堤観音信仰専らにしたというのである。二つめの方法は邪宗信仰を持った怪しい集落(白木河内)に準堤観音本尊と御堂を文化元年に建立し、本尊の開眼供養を隣峰寺庵海雲和尚によって行われた。後の結果として「天草崩れ」の際(1805)、心得違いの者が他村では一千あるいは二千数百人であるのに対し、高浜村の場合、白木河内集落を中心に316人と少数に留まったことが注目される。
準堤観音堂
文責及び監修:松本教夫氏(前高浜地区振興会長)